Liar! Liar!
僕は今、新宿のとあるマンションの前に来ていた。
人の往来も途絶え、静まり返った通りの片隅。冬の闇夜に溶け込むように僕は佇む。突き刺すような冷気に吐く息が白く濁る。だが、今の僕にはそんな寒さも、さして気にはならなかった。
獲物を待ち構え茂みに身を隠す獣の如く僕の視線は、ある一点に集中する。マンションの中ほどに位置する角の部屋には明かりが灯っていた。部屋の主は在宅中のようだ。
僕は口元に笑みを浮かべる。“ニヤリ”と表現するのに相応しいその笑みは、普段の僕ならば決してしないような種類のものだ。恐らくそれは、今、僕の中で嵐のように荒れ狂っているある感情に起因するものだろう。
そして、その原因となった人物。今夜、その人を始末する。これは、拳武館の掟に反する私闘。だが、そんなコトはもうどうでもいい。
僕は、いつも仕事で使う黒い革の手袋を取り出し、ゆっくりと身につける。仕事前の儀式
――精神集中
――といったところか。
「手加減はしない。必ず殺すッ!」
口の中で小さく呟くと、僕はキュッという革が擦れる音を立てながら、革手袋のベルトを閉める。
準備はできた。
僕は潜んでいた暗がりから出ると、滑るようにマンションの入り口へと向かった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
淡いクリーム色の扉の前。厚い鉄の扉の向こうに標的がいる。背筋にゾクリとした感覚が走り、全身に緊張が漲るのがわかる。
僕は、念のため横目で表札の宛名を確認する。薄いプラスチックの板に刻まれている名は
――――――緋勇龍麻
宿星に導かれた仲間であり、表裏の龍。そして、僕の運命の兄弟。
だが今は
―――僕のターゲットだ。
「フッ、フフフフフフフフフフフフ…………」
突如、シンとした廊下を不気味な笑い声が侵食する。それは、僕の口から発せられたものだった。
僕の中で何かが壊れた。いや、すでにもう壊れているといった方が正解か……。
きっと、日頃のストレス
―― 仕事のノルマ・母の入院費・生活費が底をついたため、この一週間は味噌汁(具なし)にご飯だった
―― に加え、今日起こった数々の出来事が、僕のガラスのような繊細な心に過負荷を与えたのだ。
ほんとに今日は、最悪な日だ。
最初に会った日からフォーリン・ラヴの如月さんに、必死になってコクったのに、あの人ったら天然ボケなもんだから、全然気づいてくれない(泣)。
その上、その場に偶然居合わせた村雨さんのヤツに、散々からかわれた挙句に、あのオヤジ、よりにもよって如月さんのく…くちび…………。
うがぁぁぁ
―――― ッ! それ以上はカットだッ!! 僕の記憶ッ!!!!
更に、龍麻に至っては、僕の純でロンリーな心を弄ぶしッ!
そんなこんなで、僕の心はふかぁく傷つき、理性は崩壊寸前。現在、ナレーションを務めている部分が、理性の最後の砦だ。
ともかく、僕の純情で楽しんだお代はきっちり支払ってもらうよ、龍麻。
フフッ…こうなったら、龍麻を殺ったついでに村雨の野郎も彼岸の彼方に行ってもらおうか。そうすりゃ、龍麻に狙われている僕と如月さんの貞操も護られるし、僕たち(?)の間を邪魔する年齢詐称の不良学生もいなくなる。
ナイスじゃんッ! 紅葉ッ!!
ひらたく言えば、お前ら邪魔だから、とっとと死ねってコトだね。なぁんだ、こんな簡単なコトに気づかなかったなんて……紅葉ったらお間抜けさん♪
扉の前で無気味な笑いを続けること約十秒。理性の欠片が残っているうちに、とりあえず黄龍を始末するか。僕は、意識を集中し氣を練り上げる。
「龍牙咆哮蹴ッ!!」
闘気が爆発し、必殺技が炸裂すると、目前の鉄製の扉が勢い良く吹き飛んだ。
普段の仕事では決してしないような暴挙だが、まぁ、部屋の前で妙な氣を撒き散らした時点で、奇襲などできるわけはないんだから、いっかッ!
僕は蹴破った扉から玄関へ侵入。そのまま、一気に龍麻がいるはずのリビングへッ!
「龍麻ッ! 僕と如月さんのためだッ!! 僕を愛しているとほざくなら、あっさり、さっくり、死んでくれッ!!!」
あの黄龍があっさり死んでくれる訳などないのはわかってはいるが、僕的希望を叫びつつ勢い良くリビングへ突入する。が
――――――――
僕はそのままの姿勢で固まった。
頂点に達した殺意と怒りはエントロピー崩壊を起こし、脳内を駆け巡るはずのシナプス信号はその動きを停止した。
つまり、茫然自失。
そんな僕の耳に届いた声は、オブラードに包んだように遠くに聞こえた。
「いらっしゃ〜〜い♪ 待っていたよ〜ん、紅葉」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
惨状
――。眼前に広がるその光景は、そう表現するしかないだろう。
床に散乱する砕け散った皿やコップ。食卓の上には、食い散らかしたままのスナックやらビールの空き缶がおきっぱなしになっている。洗濯物だろうか? 寝室の片隅にうずたかく積まれている衣類の山に読み古した雑誌に新聞。
以前、訪れた時には、確かに人間の居住空間だったと認識したんだが……。
その惨禍の真ん中で、人々を魅了して止まない天使
―― 今の僕のは悪魔に見えるが
――の微笑を浮かべている黄龍。一体どういうつもりなのだろうか? ピンクのフリルの可愛らしいエプロン(パンダのアップリケ付)を身につけている。
「…………」
「…………」
イヤな沈黙が続く。
僕が何を云っていいのか困惑しているのに対して、当の龍麻は満面の笑みで、目で何かを訴える。一体何を云いたいのか、痛いほど良くわかる自分が嫌だ…………(泣)
「…………」
「…………」
更に続く沈黙。それに反比例して、減退する僕の戦意。
なんだか…………何もかもが、どーでもよくなってきた。重い疲労感が、こう肩の辺りにのしかかってくるような感じがする。
とりあえず、眼前で起きたことは記憶から消去。
僕はそのまま踵を返して、速攻で部屋を出ようとする。
―――と、
「ヒドイッ! この俺のピンチを放って行くなんてッ!? 二人のあの日々はなんだったのぉ!!?」
足早に避難をしようとした僕の歩みを止めるが如く(イヤ、実際に止めているんだけど……)現実に形をとった悪夢が僕の肩に抱きついてくる。
「愛しき人の危機を救ってこそ、愛は深まるってもんなのに、何がお前をそこまで変えたんだッ!!!」
胃痛の原因が、抱きついた手に更に力を入れて僕を引き留めつつ、なんか自分に都合のいいことを口走っている。
思い出せッ! 紅葉ッ!! 昔、母に言われたじゃないかッ!?
『紅葉。変な人とは目を合わせちゃダメよ』
「紅葉ッ!!? 返事をしてよ〜ん♪」
「……」
無視だッ! 無視ッ!! 今僕に抱きついてきているのは、ただの背後霊だッ!!!
返事をしたら異界に引きこれて、戻ってこれなくなるッ!!!!
僕は、前進しようとする両足に力を込める。ズル、ズルと僅かずつ前進するが、バカ黄龍が全体重をかけてくるので、その歩みはカメより遅い。イヤ、決して如月さんの悪口を……って、落ち着けッ! 僕ッ!!?
「もうッ! 紅葉ッたら、い・じ・わ・る♪」
「ッ!!!!??」
ゾワッとした感触が背筋から全身に広がり、僕は図らずもその場に崩れ落ちてしまう。
「やっぱ、『耳に愛の吐息作戦』は効くなぁ」
「…………龍麻」
「なんだい? ハニー」
「殺すッ!」
「……それって『愛』?」
「なんでッ!!!??」
と…とくかく、殺る気復活ッ!
は、いいんだけど……当の標的にのしかかられているんじゃ話しにならない。
「ウフフッ♪ 殺したいほど愛してるかぁ。なんか、ストーカ・チックだけど、それも紅葉らしくっていいなァ〜〜」
「ちが
――――うッ! これは、純粋な殺意だッ!! って、ストーカ・チックが僕らしいって、君はそんな目で僕を見てたんかァッ!!!!?」
「うん」
殺る気はあるんだけど、あるんだけど……(号泣)。
お母さん……。僕を生んで下さったことには、大変感謝しています。多少、不幸な星の元に生まれたことも仕方ないことでしょう。
でも、でも……よりにもよって、なんでこいつなんですかッ!!!? しかも、表裏の龍って、あーた……まるで、僕とこいつとでワンセット、お中元のシャンプーとリンスみたいじゃないですかァッ!!!
ほんとに、僕の人生これでいいんですかッ!!? 教えてください、館長ッ!!
……フゥ。ちょっと長めに物思いに沈んでしまったようだね。床にできたしょっぱい水溜りが、今の僕の心境を雄弁に語っている。
その水溜りに人影が写る。僕の背中から移動した龍麻が、目の前で両肘を突いて僕の顔を覗き込んでいた。
「おっかえり〜♪ なんかトリップしてたけど、行ったままだったらどうしようかと心配しちゃったよ」
「心配? どうせ、僕がトリップしたままだったら、自分に都合よくとって好き勝手するつもりだったんだろ?」
「ひでェなァ……本気で心配したんだぞ、俺」
膨れっ面。少し頬を膨らましたその表情は、いつもより幼く見えて、なんだか微笑ましい。……ハッ!? いけないッ! これが、龍麻の手だッ!! 騙されるな、紅葉ァ!!!
「だって行ったまんまじゃ、部屋の片付け手伝ってくれないだろ?」
あぁッ!? やっぱりィィィィッ!!!
「何? 泣くほど嬉しいのか? なんだぁ、やる気満々じゃん♪」
「やる気じゃなくて、殺る気だ
―――― ッ!!!!!」
「はい、これ。俺とお揃いね♪♪」
「ねェ……僕の話聞いてるの? つーか、もうお願いだから、ちゃんと聞いて(泣)」
差し出されたピンクのフリルのエプロン(パンダのアップリケ付)に、僕の両目から流れ出る血涙が染み込んでいく。
「じゃあ、泣くほど嫌なの?」
「わかりきったことは聞かないでくれ……」
マリアナ海溝よりも深いため息と共に吐き出された僕の返事に、龍麻の顔が見る見る曇っていく。
悲しげに下がる形の良い眉にへの字に曲がった口元。なんだか、叱られたときの仔犬に見えてくる。……目の錯覚か、垂れ下がった犬耳が龍麻の頭の上で踊っているよぉ。
「頼むから、そんな目で僕を見ないでくれないか……。小動物を苛めているみたいで、嫌なんだけど……」
「いぢめてるじゃん」
「苛められているのは、僕の方だァ
―――― ッ!!!!!」
「じゃあ、仲良く掃除をしつつ、愛を深めるというコトで♪」
「なんで? なんでそうなるの?」
ある種の天才は、脳の思考回路が常人と違っているとは聞いたケド……。彼の場合もそういうことなんですか、館長?
「ダメ?」
仔犬が縋るような目で僕を見つめる黄龍。身長・体重とも僕と大差のない高校男子が、可愛らしく『ダメ?』と、甘えてきてもねェ……。
「…イヤ、ダメとかそういう問題じゃなくてね」
「んじゃ、OK?」
「…………」
完全に僕の負け。思えば、彼とまっとうにやり合おうとした僕が間違っていた。
胸に去来するのは、敗北感と無常観。そのまま、山にこもれば、きっと悟りが開けるんじゃないかと思う。
僕は無言のまま、フリルのエプロンを身につけると、ハタキを片手に新たな戦場へと向かった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
いやぁ……キレイになったなァ。
これは数時間後の俺の感想。
俺は今、自分の部屋のソファーで寛いでいる。その横では、壬生がグッタリとソファーの背にもたれかかっていた。
掃除終了後、数十分経過。彼はピクリとも動かない。
やり場のない怒りを掃除という行為にぶつけさせるという俺の作戦は見事に功を奏したようだ。
もう…紅葉ッたら、鬼のように働いちゃって。鬼気迫るって言葉は紅葉に捧げるよ♪
生きる死体と化した壬生っちに親指を立ててガッツポーズをとってみせる俺。俺の密やかな祝福を受けた当人は、そんな俺に気づかずに魂を飛ばしているようだ。
うむッ! このままではいけないッ!!
由緒正しい、古典的介抱の方法といえばこれしかないッ!!!
俺はそっと壬生に近づくと、顔を覗き込む。虚ろな瞳は宙を彷徨い、まるで霞がかかったようだ。
俺は滑らかな白い頬に手を添え、ゆっくりと身を乗り出す。お互いの吐息を感じるほど接近。そして
――――
「それで? キスしないの?」
「あれ? 戻っちゃったのぉ。フツーのお姫様はキスするまで起きないもんだよ」
「あいにくと、僕は普通でも姫でもないんでね」
「そうなの? 俺的には姫がいいんだけどなぁ」
「僕はゴメンだね。それで、キスは?」
「えー…………」
参ったなァ。怒りと殺る気を静めるためのお掃除作戦は、ちょびっと効き過ぎたみたいだ。
今の彼の瞳は、冷静かつ冷徹な餓狼の瞳。
過剰な怒りを異常な方法で静めようとしたら、反動で元に戻ったってところかな? うぅん……ひょっとして、俺様本気でピンチ?
「うーん、そだねェ。紅葉の右手が、もちっと色っぽいところにあるんならいいんだけどねェ……」
喉元の急所にあてがわれた壬生の白く骨張った右手は、その気になれば一瞬で俺の呼吸を止めることができる。
「……その減らず口は余裕の証かい? まったく君は、自分勝手で傲慢で……僕の話なんでちっとも聞かない」
「そう? 他の連中の評価はそんなに悪くはないんだけどなァ。俺のことそんな風にこき下ろすのは紅葉だけだよ」
そう言うと、俺は笑う。口の端をちょっと持ち上げるだけの人を食ったような笑み。
「僕だけ?」
疑わしげに俺を見やる壬生。信じてないのかァ。
俺は嘆息交じりに、もう一度壬生に言ってやる。
「そッ! お前だけだよ。本気のホントにッ!! こういう我侭もお前をからかってヘラヘラ笑うのもねッ!!」
ほんの一瞬だけ、見開かれた目。そのすぐあとに、俺の喉元を開放する代わりに顎を囚われる。
「僕だけ、ね。ストーカー・チックな僕の独占欲をくすぐる言葉だね。だけど……」
そのまま、グイッと強引に引き寄せられて
――――――。
数瞬後。俺たちは、お互いの身体を離す。息がほんの少しだけ乱れる。
あれまぁ……意外とやるねェ、君。離れ際に唇を舐めるなんて、まるで村雨みたいなテク使いやがってッ!
そのうえ、
「ちょっとやり過ぎだよ。本気で君を殺すところだった。それに……姫役はゴメンだと言ったよ。君が、姫になるって言うのなら、この先少しは考えてやってもいいけどね」
と、来たもんだッ!
俺は、先ほどの感触を確かめるように指で唇をなぞる。うん、悪くはなかった。
「ふ
――ん、紅葉ッたら……この俺様に向かって、『考えてやってもいい』なんてセリフいいと思って?」
俺は、半眼で壬生を見据える。
「君の方こそ……この僕を二号や三号にするつもりかい? そんな安売りした覚えはないんだけど」
壬生が冷ややかに返答する。
壬生の整った顔は、未だに俺の下。一応は、俺が上になっているんだが、さて……。俺は、次なる対策を練ろうと頭を回転させ始めるのだが、
「じゃあ、僕はそろそろ帰らせてもらうよ」
「帰っちゃうの? 何なら泊まっていけば? ベッドはひとつだけどね」
「死にたいのかい?」
冷静な狼の相手をするほど俺もおバカじゃないよ。どうやら、最後の最後に逆転負けを喫したようだな。
俺は、大人しく壬生の上からどいてやる。
壬生は素早くコートを身につけると、玄関に向かって歩き出す。が、その途中で歩みを止めて、俺を振り返る。
「龍麻……」
「ん?」
「ちょっと、唇が荒れ気味だね。これを使うといいよ」
壬生が投げて寄越したのは、リップクリーム。しかも、使い差しっつーコトは……
「ひょっとして、間接キッス?」
「今の君にはそれで十分だよ」
「あらら……なんだかずいぶんと言うようになったねェ」
「君のお陰でね」
壬生がフッと笑う。俺もニヤリと笑い返す。
「手ごわい獲物ほど、燃えるってね。覚悟しろよぉ」
「僕は片手間で落とせるほど、楽ではないよ」
そう言うと、彼は部屋を出て行った。
部屋には俺独り。そして、テーブルの上には黒い革の手袋。
俺は、その手袋を手に取ると、優しく口付ける。
それは、俺の宣戦布告
―――。本気の黄龍様を見せてやるよ、紅葉。
fin
「嘘つき」とは、もちろん龍麻のことですー。